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人と違うことをする、それこそが自分のアイデンティティ。
中学生や高校生の頃の僕は、そんな気持ちでいっぱいだった。
今にして思えばなんと幼稚な自己確立であったかと恥ずかしくもなるが、
今にしてそう思えることが、せめてもの救いだ。
人と違うということ、つまり自分とそれ以外とに差を見出すこと自体悪いことではない。
しかし、それに捉われすぎた結果、
自身が一番空虚なものとなってしまうというリスクを抱えているというのも事実だ。
人と違う、ということに拘ったがために、
結局は周囲に振り回されているだけという愚かな結末を招きかねない。
自分自身の愚かな、そして貴重な経験を僕に思い出させたのは、
テレビや新聞で拝見する、一国の総理大臣の言動だ。
自民党と違う政治を目指すのは結構だが、違いさえ生み出せばいいものではない。
それはオリジナリティにもアイデンティティにもなり得るものではないはずだろう。
社会で懸命に働く大人なら誰にでもわかることだ。
残念ながら彼には、彼らには、それが理解できていないように見受けられて、
無力な僕は困惑している。
有効な方法や、画期的なツール。
新しいアイデアを伴ったそれは大きなビジネスチャンスを招き入れることもある。
しかしその目新しさに惹かれて、
その方法やツールそのものにどっぷり浸かってしまっては話にならない。
そんなこと、ビジネスの世界では当たり前のことだ。
料理人が道具に拘るのは、道具が好きだからではない。
ヘアメイクアーティストがたくさんの鋏を使うのは、コレクターだからではない。
とことん拘るのは、さまざま駆使するのは、
最高の結果に拘るからにほかならない。
つまり結果こそが大切であり、
その結果をより確実に手に入れるために練り上げるのが手段。
常識、だと思っていたが。
1回目で十二分にその可能性を感じられたが、
大して話題にもならなかった2回目の事業仕分け。
目の付け所は悪くなかったと思うし、
やろうとしたことも国内政治にしては画期的だったかもしれない。
しかしもはや、手段が目的になってしまっているのでは?
事業仕分けの準備・開催自体にもかなりのコストがかかっているはずだが、
どうやらそこには触れられていない。
もはや何がゴールなのかわからない。
彼が何をしたいのかも見えてはこない。
地元の怒りと失望は日々増大してゆく。
在日米軍の基地問題。
5年ほど前に初めて沖縄に行き、普天間基地の巨大さに驚かされた。
那覇から県道を北上する間、右手はずっと普天間基地のフェンスだ。
この基地を、この機能をどこかに移す。
ある地域の人々は喜び、ある地域の人々は猛反発の大集会を開く。
辺野古と呼ばれる沖縄本島・北東地域に新しく滑走路を造ろうと言っている。
同じ日のニュースは、
地球上の脊椎動物の種類が1970年から3割も減ったと報じていた。
アマゾンの熱帯ジャングル地域では6割が絶滅したそうだ。
宝石のようにキラキラと輝くあの海に、何千何万という杭を打ち込むらしい。
その音が悲鳴に聞こえないわけがなかろう。
これほどわかりやすい自然破壊もそうはあるまいに。
それは沖縄にあったから起きた問題では無い。
徳之島が候補地に選ばれたから起きた問題でも無い。
九州でも関東でも、北海道でも、
人は皆招かれざる基地と危険を追い払い、
自分達の平和と安全を求める。
地域に住む人々に非はないと思う。
これも国のリーダーたる首相の資質とリーダーシップの問題だ。
物事の本質を見失ってはどんな解決策も空振りに終わる。
巨大な在日米軍の基地の問題、
それに端を発する犯罪や事故の問題というのは、
沖縄が×で徳之島が○か、とか、
基地をどこに構えるかという話ではないはずだ。
乱暴かつ非礼な表現を敢えてするが、
本土決戦を経験し、極東アジアで有効な抑止力を発揮できる沖縄に米軍基地が存在するのは、
歴史や世界のパワーバランスという観点で考えれば不思議なことではない。
沖縄に住む人々の多大な負担や苦痛、
それは別の地域の人が分担するかしないかの話では無かろう。
その負担や苦痛を日本国民が背負う必要があるのか否か。
それはつまり、
米軍の傘の下で守られる日本であるべきか否か、
という問題であり、
日本は軍隊を持つべきなのか否か、
という、憲法に大きく関わる問題を考える必要性を持っている。
さらに僕は思う。
憲法を改正するかしないかという議論の前に、
過去100年に渡って繰り返された大日本帝国の傍若無人な振る舞いを、
今一度顧みてはどうだろうか、と。
戦争で甚大な被害を被った後、
僕らはあるべき日本の姿をどれ程思い描いたのだろうか?
あっという間に経済的な復興を遂げ、瞬く間に世界の経済大国となった。
その気概や苦労を否定する気はないが、
さて、
僕らの心はどこにあるのだろうか。
ビジネスでも、政治でも、最も大切なのは心だ。
異論もあるだろうが、僕はそう信じている。
受けた過ちを攻めることよりもまず、犯した罪を償う気持ちを持つこと、
今だからこそ、僕はそういう日本であってもらいたい。
かつてヨーロッパを恐怖に陥れたナチス・ドイツだが、
今、ドイツは立派に軍隊を持ち、国連平和維持活動にも参加している。
かつてドイツの首相だったワイツゼッカー氏はこう演説した。
「今の若者に戦争を起こした非は無いが、戦争を起こした国に生まれた責任がある。
ドイツ国民は、永遠にこの罪を償わなければならない。」
心を説くことができてこそ、政治家ではないのか?
利益が無ければ人間は動かないかもしれないが、
最後に人間を突き動かすのは、間違いなく心であるはず。
テレビの向こうの総理大臣の言葉には、心が感じられないのだ、残念ながら。
当然のことながら、それは僕らが選挙に行かない理由にもなり得ないが。
今にして思えばなんと幼稚な自己確立であったかと恥ずかしくもなるが、
今にしてそう思えることが、せめてもの救いだ。
人と違うということ、つまり自分とそれ以外とに差を見出すこと自体悪いことではない。
しかし、それに捉われすぎた結果、
自身が一番空虚なものとなってしまうというリスクを抱えているというのも事実だ。
人と違う、ということに拘ったがために、
結局は周囲に振り回されているだけという愚かな結末を招きかねない。
自分自身の愚かな、そして貴重な経験を僕に思い出させたのは、
テレビや新聞で拝見する、一国の総理大臣の言動だ。
自民党と違う政治を目指すのは結構だが、違いさえ生み出せばいいものではない。
それはオリジナリティにもアイデンティティにもなり得るものではないはずだろう。
社会で懸命に働く大人なら誰にでもわかることだ。
残念ながら彼には、彼らには、それが理解できていないように見受けられて、
無力な僕は困惑している。
有効な方法や、画期的なツール。
新しいアイデアを伴ったそれは大きなビジネスチャンスを招き入れることもある。
しかしその目新しさに惹かれて、
その方法やツールそのものにどっぷり浸かってしまっては話にならない。
そんなこと、ビジネスの世界では当たり前のことだ。
料理人が道具に拘るのは、道具が好きだからではない。
ヘアメイクアーティストがたくさんの鋏を使うのは、コレクターだからではない。
とことん拘るのは、さまざま駆使するのは、
最高の結果に拘るからにほかならない。
つまり結果こそが大切であり、
その結果をより確実に手に入れるために練り上げるのが手段。
常識、だと思っていたが。
1回目で十二分にその可能性を感じられたが、
大して話題にもならなかった2回目の事業仕分け。
目の付け所は悪くなかったと思うし、
やろうとしたことも国内政治にしては画期的だったかもしれない。
しかしもはや、手段が目的になってしまっているのでは?
事業仕分けの準備・開催自体にもかなりのコストがかかっているはずだが、
どうやらそこには触れられていない。
もはや何がゴールなのかわからない。
彼が何をしたいのかも見えてはこない。
地元の怒りと失望は日々増大してゆく。
在日米軍の基地問題。
5年ほど前に初めて沖縄に行き、普天間基地の巨大さに驚かされた。
那覇から県道を北上する間、右手はずっと普天間基地のフェンスだ。
この基地を、この機能をどこかに移す。
ある地域の人々は喜び、ある地域の人々は猛反発の大集会を開く。
辺野古と呼ばれる沖縄本島・北東地域に新しく滑走路を造ろうと言っている。
同じ日のニュースは、
地球上の脊椎動物の種類が1970年から3割も減ったと報じていた。
アマゾンの熱帯ジャングル地域では6割が絶滅したそうだ。
宝石のようにキラキラと輝くあの海に、何千何万という杭を打ち込むらしい。
その音が悲鳴に聞こえないわけがなかろう。
これほどわかりやすい自然破壊もそうはあるまいに。
それは沖縄にあったから起きた問題では無い。
徳之島が候補地に選ばれたから起きた問題でも無い。
九州でも関東でも、北海道でも、
人は皆招かれざる基地と危険を追い払い、
自分達の平和と安全を求める。
地域に住む人々に非はないと思う。
これも国のリーダーたる首相の資質とリーダーシップの問題だ。
物事の本質を見失ってはどんな解決策も空振りに終わる。
巨大な在日米軍の基地の問題、
それに端を発する犯罪や事故の問題というのは、
沖縄が×で徳之島が○か、とか、
基地をどこに構えるかという話ではないはずだ。
乱暴かつ非礼な表現を敢えてするが、
本土決戦を経験し、極東アジアで有効な抑止力を発揮できる沖縄に米軍基地が存在するのは、
歴史や世界のパワーバランスという観点で考えれば不思議なことではない。
沖縄に住む人々の多大な負担や苦痛、
それは別の地域の人が分担するかしないかの話では無かろう。
その負担や苦痛を日本国民が背負う必要があるのか否か。
それはつまり、
米軍の傘の下で守られる日本であるべきか否か、
という問題であり、
日本は軍隊を持つべきなのか否か、
という、憲法に大きく関わる問題を考える必要性を持っている。
さらに僕は思う。
憲法を改正するかしないかという議論の前に、
過去100年に渡って繰り返された大日本帝国の傍若無人な振る舞いを、
今一度顧みてはどうだろうか、と。
戦争で甚大な被害を被った後、
僕らはあるべき日本の姿をどれ程思い描いたのだろうか?
あっという間に経済的な復興を遂げ、瞬く間に世界の経済大国となった。
その気概や苦労を否定する気はないが、
さて、
僕らの心はどこにあるのだろうか。
ビジネスでも、政治でも、最も大切なのは心だ。
異論もあるだろうが、僕はそう信じている。
受けた過ちを攻めることよりもまず、犯した罪を償う気持ちを持つこと、
今だからこそ、僕はそういう日本であってもらいたい。
かつてヨーロッパを恐怖に陥れたナチス・ドイツだが、
今、ドイツは立派に軍隊を持ち、国連平和維持活動にも参加している。
かつてドイツの首相だったワイツゼッカー氏はこう演説した。
「今の若者に戦争を起こした非は無いが、戦争を起こした国に生まれた責任がある。
ドイツ国民は、永遠にこの罪を償わなければならない。」
心を説くことができてこそ、政治家ではないのか?
利益が無ければ人間は動かないかもしれないが、
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当然のことながら、それは僕らが選挙に行かない理由にもなり得ないが。
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男性
自己紹介:
人 魂 で
行 く 気 散 じ や
夏 野 原
アメリカと日本、
そしてそれぞれの文化を
こよなく愛し、
その矛盾する感覚に
自分自身興味津々。
1996 BUELL S1
僕の頼もしい愛車。
葛飾北斎と
MOTLEY CRUEを
崇拝しております。
休日は近所のタリーズで
絵を描いたり、
雑誌読んだり、
人間観察したり、
考え事したり、
何もしなかったり。
行 く 気 散 じ や
夏 野 原
アメリカと日本、
そしてそれぞれの文化を
こよなく愛し、
その矛盾する感覚に
自分自身興味津々。
1996 BUELL S1
僕の頼もしい愛車。
葛飾北斎と
MOTLEY CRUEを
崇拝しております。
休日は近所のタリーズで
絵を描いたり、
雑誌読んだり、
人間観察したり、
考え事したり、
何もしなかったり。
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